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【城(ぐすく)History 02】琉球王国にタイムスリップ!城巡り旅!城跡からの絶景!(沖縄南部)


沖縄は、かつて本土とは全く異なる歴史と文化が息づいていました。その名も琉球王国。今帰仁村を中心とする【北山】浦添~首里を中心とする【中山】旧高嶺間切(現在糸満市の一部)の大里を中心とする【南山】の三つの地域にそれぞれ王が現れた。三国志さながらのこの時代を【三山時代】と称する。【城(ぐすく)History】で、絶景ポイントの城跡をご紹介していきます。


【城(ぐすく)History 02】沖縄南部03

南城市『糸数城跡』!慶良間列島まで見渡せる高台に、中世をしのばせる壮大な城壁!

沖縄本島南部最大級のグスクである糸数城跡(いとかず)は、「玉城城の西の守り城」として築城。現在の糸数村落南側、慶良間列島まで見渡せる高台の断崖上に築かれた古城で、『英祖王統第4代玉城王・玉城按司(たまぐすく)』が次男を大城按司に、三男を糸数按司に任したという伝説があり、おそらく「三山分立時代」の初期14世紀前年の築城であろうと思われています。

中世をしのばせる壮大な長く美しい曲線が続く城壁は野面積みと切石積みと両方用いられ、切石積みの部分が最も高く約6メートルで、この上に立つと太平洋と東シナ海が眼下に望めます。天に向かってそびえ立つようなアザナ(物見台)の景観はまるで映画のような迫力。構造的には比較的単純な城で、西側は断崖を利用し、東北東に城門をひらいています。城内の随所には遺物包含層がみられ、そこからは土器に混じって中国製品の陶磁器類が発見されます。また、「琉球国由来記」にも記載された[糸数城之殿」も城内にあります。

城(ぐすく)History 02】沖縄南部04

南城市『大城城跡』!標高143mの丘上に建てられた城跡から見える景色は最高に綺麗!

大城城跡(ウフグスク)と呼ばれ、『英祖王統第4代玉城王・玉城按司(たまぐすく)』の次男で、14世紀頃に一帯を支配していた、大城按司眞武(うふぐすく)によって築城されたと伝えられています。大城按司が大里城城主である島添大里按司との戦いに敗れ、城も廃墟と化しました。現在は、その様相ははっきりとつかめませんが、南側に城門を開き、北側は一段高くなり正殿跡がみられます。 大城按司は「英祖王統第4代玉城王の次男であったということであるが、もしその通りだとすれば、同王統第5代西威王の弟であったことになるが、真偽の程は解らない」『大里村史資料編』

英祖王統(1260~1349年)は4代目、玉城王(在位1313?~1336年)であるが、5代目の西威(せいい)王が死んだ際、幼子世子を廃し、察度が国王となったので、英祖王統は90年ほどで終焉を迎えた。もし伝承が事実なら、大城按司真武は英祖王統の流れをくむことになる。標高143mの独立丘上に建てられた城跡から見える景色は最高に綺麗でした!

【城(ぐすく)History 02】沖縄南部05

南城市『島添大里城跡』!視界180度のパノラマが広がる【三山時代】の監視塔!

島添大里城の起源は14世紀頃、当時の島尻地域を支配した島添大里按司(しましーおおざと)南山王・承察度(うふさっと)が中山への備えとして弟の汪英紫(おうえいじ)に築かせたという説がありますが、築城年および築城者は不明です。標高約150メートルの琉球石灰岩の丘陵台地を利用し、崖を背後に天然の地形を巧みに取り入れ堅固な城壁を築くなどした要害で県内でも有数の規模を誇る城(グスク)。「島々を支配する」という意味を持つ「島添」の島添大里按司の居城として、大里・佐敷・知念・玉城など本島島尻地域の東半分を支配下に置き、中国の明王朝とも盛んに貿易を行っていたと言われるほど、当時大きな勢力を誇っていました。正殿からの眺望は素晴らしく、勝連、中城、首里といったグスクの動向が把握できるという戦略的に有利な位置にありましたが、15世紀の初めに『初代琉球王朝の国王となった尚巴志(しょうはし)』によって攻略され,落城した後は尚巴志による【三山統一の拠点】となり、首里城へ本拠が移転した後は離宮として使用されました。現在、城跡は城址公園として整備されていて、大里城址公園には「ミーグスク(新しい城の意)」に展望台があり、【三山時代】の【中山・北山の要城】であった『中城城』『勝連城』を監視するために作られたといわれている。現在でも展望台からは、見ることができ【三山時代】にタイムスリップ夢の中へ!

現在でも展望台からは、見ることができ【三山時代】にタイムスリップ!


 
 
 

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